どうやって?の計画

あなたは、何か目標があった時、何をすれば成し遂げられるか考えると思う。

確かに、試験に行かなければ合格しない様に、何かを達成するためには何かしらの行動が必要なのだ。

しかし、何をやれば目標が達成されるのかを計画するのに、どの様な方法を用いるだろうか。

漢字検定を合格すると言う目標ならば、漢字練習をしなければ合格できない。それをどの様に練習するのか、どの様な教科書を用いた方が一番合っているのかと言う問題だ。

教科書が変わっただけでは、もしかしたら大きな差は生まれないかもしれない。

しかし、2つの分かれ道があり一方しか生き残れないと言うレベルの選択肢になったとき、本当に正しい道を選べるか?

常に正しいのは自分の感覚と、あそこにたどり着くんだと言う強い思いになってくるのだ。

前の記事でも書いた様に、「私はこうなるんだ」と意図すれば、周りが勝手に用意してくれるのだ。

全く努力しないでも大丈夫と言うものではない。

ただ、その努力の仕方を間違っていては、いつまで経ってもその目標にはたどり着けないのだ。

目標を意図して、日々の生活に感謝をすること。

そして、自分の感情で判断しないこと。

「流されて生きる」のは聞こえが良くないかもしれないが、それは良し悪しなのだ。

どこに流されるのかをしっかり見失わなければ、流されることは怖くないのだ。

ベルトコンベアにただ流されて、どこに行くのかわからない不安に駆られるのは怖いものだ。

しかし、どこに行くのか分かっていてベルトコンベアに流されるのは安心感さえ覚えるのだ。

こうなると意図して、流されること。

流れてきたものは感情抜きに素直に受け入れて、ベルトコンベアに乗っている部品を組み立てるみたいにルーチンワークでこなすこと。

そこに余計な感情はいらないのだ。

エネルギー、すなわち感情を使うのは最終目標である意図された部分にしかいらないのだ。

過程に余計なエネルギーをかけてしまうと、その過程自体に意思を持ってしまう。

つまり、この過程は間違っている。

もっと良い方法があるはずだと自分を裏切り、信用せずに目標を見失った旅に出かけてしまうことになる。

その過程にストーリーはいらないのだ。

人間は朝起きたら目を開けるものだと同じ様に、大工は家を建てるのが当たり前だし、絵描きは絵を描くのが当たり前。

それをやろうかな?どうしようかな?と言うのは誰も求めていないのだ。

とりあえず、部品を組み立てろ。

そして、すでにゴールを意図しているのならば流れに乗るのだ。

なかなか流れに乗れないのは、感情が邪魔しているのだ。