今のままで十分幸せ

あなたは今のままが一番幸せなのだ。

そのままで良いのだ。

アレしなければ幸せじゃない。

こういう人間にならなければ幸せにはなれない。

と、考えるかもしれないが今の現状に幸せを感じられないのであれば、

どんな人になろうとそこにある幸せに気づくことはできないのだ。

幸せになるために、どんな人間に変わるかは問題ではない。

幸せになりたいのであれば、今ここにある幸せに目を向けるのだ。

「幸せを見つけられないから今悩んでいて、何かやらなければならない衝動に駆られている。」

と、言われるかもしれない。

しかし、それでも幸せは転がっているのだ。

あたなが今ここで生きていられるのも雨風をしのげる家があること。

その家に居られるだけのお金があるということ。

また、贅沢しなくてもちゃんと何かしらご飯を食べられるという幸せ。

生きているからには、絶対何かにお世話になっているのだ。

まず、水や空気がなければ生きられないのだから。

そう考えるとすべてのものに感謝、感謝なのだ。

あなたがシャケを買って食べられるのも、シャケを産んでくれた親シャケやシャケが育った自然と環境、シャケを獲ってくれた漁師さん、市場から運んでくれた運送屋さん、サバいてくれた調理師さんなど、

それ一つをとっても、一つの”感謝”だけで終わらないのだ。

それ一つが完成するのにも、いくつもの感謝が隠れているのだ。

目の前にあるものだけが真実ではない。

裏や奥に何層にも渡って、さらなる感謝が重なっているのだ。

それを見ようとすること。その努力をしようとすること。

それが、私たちを生かしてくれている存在全てに対する恩返しなのだ。

感謝して、いただく。

今、幸せじゃないっていう人は幸せじゃないのではなく、

幸せなことに気づいていないのだ。

生きているだけで、本来みんな幸せなのだ。

小さい頃はそれが目新しかったのに、いつの間にか当たり前だと思っている。

ご飯が目の前に当たり前に出てくることは、当たり前じゃない。

当たり前という言葉と思考が感謝を遠ざけてしまっているのだ。

当たり前なんてことは、何事においても全くないのだ。

旦那なら妻を支えるのが当たり前。

妻は家事を頑張るのは当たり前。

子供は親の言うことを素直に聞くのは当たり前。

当たり前が増えれば増えるほど、葛藤が増えていく。

例えば、

「子供は親の言うことを素直に聞くのは当たり前」

と言う当たり前が植え付けられている人は、

子供が自分の言うことを素直に聞かなかったら、怒ったり不機嫌になったりするのだ。

そこで思うのだ。

”子供が素直に良い子に言う事を聞いてくれたら、私が幸せになれるのに。”

幸せじゃない原因を作っているのは、本人だと言う事が気づけるだろうか。

本来、子供が一緒にいるだけでありがたいし、幸せなのに、それを自らあえてブロックしているのだ。

だから、今幸せでないと感じてしまうのだ。

人生は自分が思ったようには動かない。

人生はうまくいかないことばかりだ。

うまくいかないことばかりが人生なのに、どうにかしてうまくいかせようとするから、葛藤が生まれるのだ。

あなたの人生は実はもう、生まれる前から全部決められているのだ。

人生をあれこれこうしたいと言っているのは誰か?

それは自分自身だ。

本来の自分自身ではなく、いつもあれこれワガママを言う方の自分自身だ。

あれこれワガママを言う自分も自分自身だ。

あれこれ言うのも人生のうち、うまく行かないのも人生のうち。

ジタバタしようが何しようが起きることは起きるのだ。

その起きたことが幸せな出来事かそうでなかった出来事かを決めるのは、あなた自身なのだ。

目の前の幸せに気づいて、感謝する人生にシフトしようと受け入れることができれば、

さらなる幸せに気づける人生がスタートするのだ。

それが受け入れられないのであれば、受け入れられないで良い。

それも人生だ、受け入れられないのも何か理由があるし、今は受け入れないほうが人生うまくいくからこそ、そうなっている。

人生は全部うまいこと行くように設計されているのだ。それを信じること。

その設計にも感謝なのだ。

人生、何かが起これば幸せ。人生、何も起こらなくても幸せ。

親が嫌い、旦那が嫌い、嫁が嫌いな人は無理に好きにならなくても良いのだ。

無理に何かを変える必要はない。

”何かにならなければならないことはない。”

嫌いなら、嫌いで良い。

それは、今はまだなかなか好きになれない理由があるのだ。

急がなくて良い。

しかし、どんなに嫌いだろうと感謝は忘れないこと。

どんなに努力してもやっぱり好きなものと嫌いなものはあるのだ。

合うものと合わないものも。

それでも、感謝を忘れないこと。

嫌いなものがあるからこそ、好きなものがある。

悪いものがあるからこそ、良いものがある。

片方があるからこそ、もう片方がある。

嫌いなことがあるから幸せになれないことはないのだ。

何かトラブルがあれば幸せになれないじゃないかと言うかもしれない。

身近な人が亡くなる。

仕事がうまく行かない。

人間関係がうまく行かない。

しかし、うまく行かないことも人生のうち。

うまく行かないからこそ、人生は面白い。

そんなふうに、人生をとらえられないかもしれない。

しかし、それでもそう思わなければ幸せにならないじゃないか。

トラブルがあるからこそ、こう言う時はどうしたら良いんだろう?とかどう言うふうに考えれば良いかの?とあれこれ考えを巡らせて、それを乗り越えた時また一段と大きな人間になれるのだ。

トラブルは成長のチャンスであり、神様からのギフトなのだ。

平坦な道ばかりの人生なんて、退屈だとは思わないだろうか。

平坦な人生が良いと言う人は、実はこの地球に生まれていないのだ。

皆、山あり谷ありの人生を歩み楽しみたいから、今ここにいるのだ。

そのように思えなくても、そう思ってみると楽しくなるのだ。

何かトラブルがあるからこそ、皆に愛されている。

さらに大きい人間になったのなら、今度は他人を幸せに導いてあげられるのだ。

人はいろいろな使命を持って生まれてくる。

それが何かは気づいていなくても、着々と遂行されているのだ。

人によって生まれ持っている使命は違う。

だから、人生こうしなければならないと言う一般常識など当てはまらないのだ。

有名な自己啓発本の著者の先生は本を読んだ通りの素晴らしい人生だろうが、あなたもあなたでオリジナルのストーリーがあって、同じくらい素晴らしいのだ。

自己啓発本の著者は、「私はこうやったからより良い人生を手に入れたのだ。だから、あなたもそうしてみなさい。」と書いてあることを鵜呑みにして、その著者と同じ人間になろうと追いかけて、達成できたことがあるだろうか?同じ人間になれたことがあるのだろうか。

全く同じ人間など、絶対にいないのだ。

その人はそのやり方で成功したかもしれないが、あなたはあなたなりのやり方がある。

あなたは決して”ある有名な著者”にはなれないが、その”ある有名な著者”もあたなには決してなれないのだ。

あなたはあなたらしい道を歩むのが一番幸せ。

考え方も「このように変えろ」と言われたとしても変える必要はないし、変えることはできないのだ。

何かが変わるには、変わる時期があるし、変化を受け入れられない時期があるのだ。

自分の正しい変化というのは、常に内側からくるもの。

内側から”こう変わらなければならない”と感じることがあるとすれば、それはそのように変われば良いし、それが自分における唯一の正解なのだ。

そのためには、外側からあれこれ纏うのではなく、内側から溢れてくるものを感知する心を育てるのだ。

常に自分の感情に敏感になる。

”思考”や”考え”ではなく、今自分は何を感じているのか。

泣いたり怒ったりすることも、どんどんして良いのだ。

それこそ、生きることの醍醐味だ。

なぜ、喜んだり笑ったりするのは良いのに、怒ったり泣いたりするのはダメと言われるのか?

”強い男は泣いてはいけない”

”すぐに怒ったりしてはいけない”

楽しいことがあれば自然と笑うように、

悲しいと感じればちゃんと泣ける心があり、

”バカ野郎!”と罵られたらイラっとくるような、

そんな正常な心を誰もが持ち合わせているのだ。

そんな正常な心に規制をかけているのは誰か?

もちろん、親や旦那、妻がそういう規制をかける言葉を吐くかもしれない。

しかし、それを間に受けて受け入れるのは自分自身だ。

自分に自信を持って、他人に押し付けれることを鵜呑みにしないこと。

もちろん、自分によって必要なことを言われるかもしれないが、言われたことをそのまま従わないことだ。

なぜ、相手はこんな心にもない言葉を吐くのか。

それには理由があるのだ。

どんな理由かはわからないが、とにかく理由があるのだ。

相手にとって、そんな心にもない言葉を吐かなければならない状況だからそうなったのだ。

自分の心を信じ、人生を信じるように。

それと同じように、相手の心と人生を信じ、理解しようとする心は自分の人生の成長に大いに役立つのだ。

目の前にいる相手は、たいてい自分と同じ悩みを抱えている。

それは、波動が似ているからだ。

相手をよく観察すること。

どんな嫌いな相手にでも手を差し伸べようとすること。それこそが試練であり、生きる醍醐味だ。

どんなに嫌いだろうが、ちゃんと理由があってあなたの目の前に現れたのだ。

だから、どんなに嫌いな相手でも感謝する理由はあるのだ。

話が長くなってしまったが、

今のままでも十分幸せだと、少しでも感じてもらえたら幸いである。