慈悲の心2

前回は、慈悲の心1でした。

どんな人にも表には見えない奥がある。

それを感じることによって、他の世界に触れて、自分の世界をより深く知る事が出来るのである。

子供の頃どんな親にどのような境遇で育てられて来て、学校生活はどうだったのかなど、人生丸ごと全部知った時、そんな環境で育てられたらそうなるだろうな。と、理解できるのである。

連続殺人犯も、結果だけを見れば「残虐で最低だ!」と思うかもしれない。

しかし、決して殺人を擁護する訳ではないが殺人犯も彼なりの人生を歩んで来た中であたかもそれが”当然”かのように彼の人生がそうさせていたのだ。

どんなことをしている人間にも人生があり、それまでに至る経緯があった。

「こんな経緯があった。ならば、やって仕方ないね」という意味合いの話ではなく、まずは理解しようとする事が大切なのだ。

とはいえ、どんなに理解しようとしても、理解してもやっぱり受け入れがたい人はいるし、どうしても苦手だから近寄ってほしくないなぁと思う人は居るのだ。

それは仕方のない事だが、それでもやはり、”嫌いな人と会うかもしれない”という状況があるだけでもストレスであり、恐怖なのだろう。

そのような時は、慈悲の瞑想の”嫌いな人”という部分がとても役にたつのだ。

「慈悲の瞑想〜嫌い嫌われ編〜」

私の嫌いな人が幸せでありますように
私の嫌いな人の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人の願いごとが叶えられますように
私の嫌いな人に悟りの光が現れますように

私を嫌っている人が幸せでありますように
私を嫌っている人の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている人の願いごとが叶えられますように
私を嫌っている人に悟りの光が現れますように

と、唱えるのだ。

唱えるだけならとても簡単だと思うが、「嫌いな人や嫌っている人になんて、幸せになってほしくない!不愉快!」と思うだろう。

正直、「嫌いな人」「嫌っている人」と唱えた時に自動的に脳裏に実在の人物が浮かんで来て言いにくいのではないかと思う。

私もそうだった。

しかし、だからこそ、なおさら唱える事に意義があるのだ。

この瞑想は相手の幸せを願って相手を幸せにするという文章だが、実際に救っているのは自分自身なのだ。

誰かを嫌っているという、自分の中の一部の恐怖をこの慈悲の瞑想で、自分自身に許しを与える事により消し去っているのだ。

相手も救われるのなら、自分も救われる。

自分ではなく他人の幸せを願うということは、自分勝手なエゴを排除し行っているので、幸せの波動をキャッチした時に受け入れやすくなっているのだ。

相手は自分の鏡。

目の前にいる人はどんな人でも偶然ではなく、意味があるのだ。みんな自分の何かを映し出して居るのだ。

(この話は別の機会にするとする。)

話を戻すと、嫌いな人を許すという事。

嫌いな人がいるという自分の心を許すという事。

周りの世界は自分の心の投影だ。

現実世界に嫌なことがあれば、心の中にもそれを許せない部分があるのだ。

外の世界は内の世界。

外の世界を今まで以上に観察する事によって、心の成長につながる。

心の成長につながると、今まで以上にもっと楽に生きやすくなるのだ。

許し、許しが人生の生きるそのもの。

「慈悲の心3」へ続く。