慈悲の心1

あなたは「嫌いな人」に対してどんな感情を持つだろうか。

さまざまな場面において、嫌いな人は居ると思う。

私も病院で働いていた頃、とても自分勝手でワガママな患者がいたのだ。

「誰も近寄りたくない存在、許せない存在、そんな人がいる事がいやだ。近寄りたくも、話したくもない。」

そう思うのは人間、誰しもあるだろう。

しかし、その嫌いな人であっても、他の人は嫌いじゃない人もいるのだ。

嫌いだと思っていても、その嫌われている人の親や恋人には愛されているのだ(たぶん)

少なくとも、誰かには愛されている可能性はあるのだ。

自分は嫌いだと思っているのに、嫌いだと思っていない人もいる。

それを考えたら、その人が”嫌な人”と目に映るのは自分だけであり、その人自体が”嫌な人”ではない事がわかるだろうか。

そうなるのはなぜか?

それは、自分の中に決めつけている正義と、育ってきた環境、プライドなどが関係あるだろう。

昔から、親に「何事にもありがたみを感じて人には親切にしなさい」と教わっている人もいいだろう。

それはすごく良い事であり、みんながみんな実践してくれたらすごく良い世の中になると思う。

しかし、その教えは同時に固定概念を植え付けるのだ。

「何事にもありがたみを感じて人には親切にしなさい」と教われ、それが正しいと受け取り、それが正義なんだと理解し、実践すると、

”何事にもありがたみを感じなくて、人にも親切にしない人”は正しくない、悪だ。と、感じるようになってしまう。

確かに、そういう人は世間一般に考えて良い人ではないかもしれない。

実際に私も、そんな人いたら嫌だし、迷惑だなぁと思うかもしれない。

しかし、”何事にもありがたみを感じなくて、人にも親切にしない人”を悪だと感じる自分はいるけど、その人自体は悪では無いのだ。

わかるだろうか。

おまけに、その人自体は自分を悪だと思っていないのだ。

さらに言えば、もしも、その人が親に「何事にもありがたみを感じてると疲れちゃうからもっと楽に生きな、人にも親切にしようと頑張らないでいいよ。あなたはそのままで十分完璧なんだから」と言われ、育てられ、それをそうだと受け止め、信じて実践してきていたらどうだろうか。

その人にとっては、むしろ、「何事にもありがたみを感じて人には親切にしなさい」と教えている、または、実践している人が悪だと感じてしまうのだ。

一つの教えは、もう一つの教えを産むのだ。

物事の裏側を理解してから表向きの教えを与え、またそれが十分に伝われば、無駄な誤解や嫌いな人を生むキッカケもなくなるのだろう。

しかし、社会において表裏全てを理解して人に伝えようと意識の高い教えを与えられる人ばかりじゃない。

むしろ、そんな完璧に教えられる人はいないのだ。または、そんな必要も甲斐もない。

受け取る方が、物事を判断していかなければどんどん、人の思考の虜になり自分を見失うのだ。

誰かに教えをいただいた。

なぜ、目の前の人は私にそう教えるに至ったのか?

・親であれば、人に親切にできない子に育った時に他人の子に迷惑をかけて、その子の親からお怒りの電話が掛かってきたらどうしよう。

・上司であれば、部下が仕事でミスをしたら監督不行き届きで自分が徴罰を食らったらどうしよう。

だから、私にそのように教えを説いたのだ。と、そこを理解する事。

教えられた事全てが正義であり、万国共通のルールであり、世界の常識ではない。

ただ、勝手に、気まぐれに教えられているだけなのだ。

相手の状況を理解し、なぜ、その教えを与えるに至ったのか、それを理解してから、初めて教えの言葉を受け取れるのだ。

その教えの言葉は、正しくない。

しかし、自分がどう生きれば良いかの選択肢にはなる。

教えが迷惑だと言っているのではない。

外からの刺激全てが迷惑だというのであれば、この世界で生きている事ができないのだ。

または、そのような刺激があること自体が生きている醍醐味であり、楽しさ、面白さ、成長なのだ。

そのような教えをもらい、文字通り受け取らず、どのように解釈するのか。

自分が、教え通りに生きたければそうすれば良い。

そう生きたくなければ、そうしないだけだ。

どう生きるかは人に左右されないのだ。

(もっと深いレベルの記事を書いた際、この言葉は矛盾してくるのだが。)

横道に逸れてしまったが、今回言いたいことは

相手も自分と同じだということ。

嫌いな相手というのが、「何事にもありがたみを感じて人には親切にしなさい」とは教わらずに、「何事にもありがたみを感じてると疲れちゃうからもっと楽に生きな、人にも親切にしようと頑張らないでいいよ。あなたはそのままで十分完璧なんだから」と教わったとして、それを何の判断も通らずに、文字通りに受け取ってしまって、真面目に実践してきた人だとしたら。

その辺まで奥を見て考えてみたら、自分の「あいつが嫌い、何考えてるかわかんない」が少しだけ、「あいつを理解しようと」考えてみれるのではないだろうか。

表面だけ見ないこと。物事には必ず裏や奥がる。

どんなに嫌いでも、相手もちゃんと見てみること。それは即ち、自分を見つめ直すことになるのだから。

「慈悲の心2」に続きます。

>それでも嫌いなものは嫌い。

>どうしたら嫌いなあいつを好きになれるのか。

>嫌いな人が幸せ。

>そうやって育てられたそりゃそうなるよ